ずーっと続くその先に…
以前海外と日本の教育の違いの一つとして
海外では、学校などでは「個」を大切にした
教育が行われている
家庭では、家族、親せき、近所など
「コミュニティ」を大切にした
教育がおこなわれている
と紹介されていました
しかも、日本のように
学校では集団を意識した教育
みんな一緒が重要視され
その割には、家庭内では
家族がほとんど顔をあわせず過ごし
親せき、となり近所との付き合いも
疎遠で孤立している
など逆転現象がおきているというのは
少数派のようです
それを聞いた時は
なるほど、確かに
とよくわかったつもりでしたが
最近、さらに痛感しています
子ども達からよくきく言葉
「みんなになんか言われる」
これ、大人も良くいいませんか?
この「みんなになんか言われる」は
諸悪の根源だと思うんですよ
だいたいすごく あいまいでしょう?
みんな・・・みんなって誰ですか?
みんなっていってしまったら
特定できないから
つまり誰かわからない誰かってことになり
どこの誰とも知らない人に言われる
なんてことを気にしだしたら
きりがない
人は何とでもいうから
どこの誰かわからない人を基準にした時点で
基準がないも一緒だと思います
しかも
そのどこの誰かもわからない人から
「なんか=何か」を言われる
「何か」ってこれもまた
ないも同然のことば
こんな得たいのしれないものに
しばられて何もできないなんて
ナンセンス
愚かだとおもうんです
いつから、ここまで
周りを気にして生きなければ
いけなくなったのでしょう?
空気を読むなんて言葉が
出来始めたころからおかしくなってきた
のかもしれないですね
大好きな○○君に「太ってる」と言われたくない
これならわかります
この見えない物を恐れて
一歩踏み出せないのは
もったいない
もったいないです
人に何か言われて
ひるんだり、困ったりするのは
そこに自分がないからだと思うのです
そして、自分を持って行動する
その事に子ども達の社会が
なじんでいないのを感じます
自分は出さない
自分を持たない
みんなの中に混じり
みんなの中でそーっと
波風をたてないように
ターゲットにならないように
生きる
こんな息苦しい中で
そうできない子たちが
はじき出され
おぼれて
学校へ行けなくなる
自分のできる事の少なさに
歯ぎしりする思いの
ここ二三日
合理的配慮はぜんぜん進まない
それなら、何もわからないほうが
良かったんだろうか?
そんな風にも思えてくる
そんな時、保護者面談で
ディスレクシアとわかった子のお母さんが
来てお話してくださった
職場にも大人になってから
診断された方がいらっしゃるそうです
聞き取った事柄を
メモに書きとらなければならないのですが
その速さと量、聞きとる内容も
専門的で聞きなれない言葉ばかり
とても苦労されているようです
自分の特性を知らなかったから
今までとても大変だったよう。
今、わかった事で
すぐには何もなくても
将来どこかで、知っていたことで
できる事があるはずと思います
今知る事ができて
親としても良かったと思います
といってくださった。
安心しました
そう、どの子もこれからの一生のほうが
圧倒的にながいのだ
ゆっくりと付き合っていくしかない
結論は今でるものじゃない
長い長いサポートをしていこう