勇気をもって変革を!

この二日間
試験勉強に毎日通う
塾生につきあって

わからない所など
一緒になって
問題に取り組んできました

先日のブログで
マクドナルドの
圧倒的な効率化によって
接客スピードが
ものすごい進化を遂げて
速くなっていた事を

お伝えしたのですが

学習の現場では
ずっと昔から

この「速さ」という
やっかいな基準に
縛られてきた・・・

と私は感じています

数学の難しい問題
その子のテストでは
いつも空欄か
間違いで✖がついています

では、本当にこの問題を
解くだけの力が
この子にはないのでしょうか?

一緒になって解いていて
感じるのです

こんなに一生懸命
解こうという気持ちで向き合って


時間を書ければ
解く事ができるのに

テストの点数を上げる為には

こういう難しい問題は捨てて

計算問題とか
点をとれる簡単な問題を

もう一度見直して
確認したほうがいい

そう子供らにいいながら

本当にそうだろうか?

という疑問にいつも
ぶちあたるんですよ

そんな難問、テストにでない
でても時間がかかるから
捨てたほうがいいと
言っても、

子ども達は解こうと思って
先生これ、どうやって解くの?

と聞いてくれるのです

ええ子や

そして、

あぁ、めんどい
わからんと
言いながらもちゃんと
向き合っているのです

そうして、
あぁ、そういうことか!
と自力で解けたときは
満足げな顔をしているのです

そもそも、
どうして時間内に解けないと
評価がさがるのでしょう?

学校の定期テストは
なんのためにあるのでしょう?

その子がその単元を
習得したかどうかは
テストではかれるものでしょうか?

1分で解ける子が評価されて
5分かかって解いた子は
評価されなくていいのでしょうか?

時間切れでできなかった
それは、その子の力が
劣っていると判断してもいいのでしょうか?

時間がかかっても
最後まで考え通して
正解にたどり着いたのなら
それは、まぎれもなく

正解ではないでしょうか?

今までの世界は
人間が早くできる事が
価値だったのかもしれません

そろばんが速い
速く読める
速く書ける
速く計算できる

速く・速く・速く

仕事が速い人が良いという
価値観があったからでしょうか?

でも、これからの世界
もうある出来事の処理は

どうやっても
パソコンに勝てる要素が
ないように思います

AIはいまや
慶応や早稲田などの
大学入試問題を
解いてしまうまでになったとか

これからの世界にもとめられるのは
速さではないように思います

ならば、学校の評価制度も
そろそろ変化しても
よいのではないでしょうか?

WISCという検査があります
その子の特性をはかる検査です

言語理解・知覚推理・ワーキングメモリー・処理速度

の4つの分野を評価します

このバランスの悪い子が
発達障害と一般に呼ばれます

例え全般のIQが
フリーメーソンに入れるほど
高くても

バランスの悪い子は
発達障害の状態となります

しかし、どんな人でも
どれかが得意で
どれかは不得意な数字が
でることが普通です

処理速度の遅い子は
頭で処理した事が
すぐにはアウトプットできず
時間がかかります

でも、ただそれだけです

時間がかかっても
できるならやらせてあげたいではありませんか!

四角い枠に収まりきらずとも
その子の特性を認める
ただそれだけなんじゃないかと
思えてならないのです

朝から晩まで
一生懸命問題を解いていったこの子は

学校のテストのきめられた
時間内に問題が解けなくて
点数がとれないと

どうしてがんばらないの?と
責められなければいけないでは

勉強が、学習がきらいになっても
しかたなくないですか?

もう、これ以上は
考えても解けない

というまでテストは受けられるとか

調べてもいいし、
道具を使ってもいい
それでも自分なりの答えを
だしなさい

というテストがあっても
いいと思う

それも、これも
入試があるから
そんな甘っちょろいこと
いってられないんだ

となるかもしれない

でも、それなら
入試なんて、希望したら
だれでも入れるように
したらいい

その代わり、
卒業は勉強しないと
難しいというような
外国みたいにすればいい

変えられない本当の理由って
なんだろう

変えると起きるデメリットは
変化の先のメリットを

本当に超えるんだろうか?

学習塾エンカレッジ桃花台だけでも
勇者アカデミーの
アインシュタインプロジェクトだけでも

そんな縛りの枠から
子ども達を解き放てないかな
と真剣に考えてやまないのです

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